先人の教え。その地域に合わせた生活。また、同じ場所に住みたいと思う人がたくさんいます。復興に、力を合わせましょう!
石巻・水浜集落 完全孤立も冷静
「千年に1度」と言われる東日本大震災の大津波は被災地に壊滅的な被害をもたらした。そのなかで、昔から何度も津波を経験してきた宮城県石巻市雄勝町の水浜集落は、約130戸の集落がほぼ壊滅したが、住民は380人中、死者1人、行方不明者8人で全体の2%程度。背景には、地域で受け継がれてきた知恵や防災意識の高さがあった。
水浜集落は、津波を増幅させるリアス式の雄勝湾の入り口にあたる。昭和8年の昭和三陸津波や、35年のチリ地震津波を経験し、昨年2月のチリ地震でも約70センチの津波が押し寄せた。集落近くの市の支所前には、「地震があったら津波の用心」と刻まれた石碑があった。
石碑は今回の津波で流されてしまったが、長年言い伝えられてきたその言葉を胸に刻んでいる。
主婦の秋山勝子さん(67)は地震当時、海岸から約30メートル離れた自宅にいたが、夫とともにそのまま飛び出し、高さ二十数メートルの高台を目指した。高台に着いた約15分後、茶色く濁った波が轟音(ごうおん)とともに、集落をのみ込んだという。
湾を襲った津波は最高約20メートルに達し、約130戸のうち9割以上が流出。だが、住民約380人の大半は波がくるまでに、高台に登り難を逃れた。
地区では毎年、高台に上がる訓練を実施している。地区会長の伊藤博夫さん(70)は「水浜のもんは、高台までの一番近い道を体で覚えている」という。「貴重品やアルバムはすぐに持ち出せるよう、リュックサックにまとめている」と話す住民もいた。
集落には1人暮らしのお年寄りも多かったが、伊藤さんは「どこの家に誰がいるか、頭に入っている」。自身も独居高齢者を家から連れ出し、背中を押して高台を目指した。
今回、被害が大きかった地域では、荷物を持ち出そうとしたり、車で逃げようとして渋滞に巻き込まれたりして、逃げ遅れたケースも目立つが、秋山さんは「命さえ助かれば、後は何とか生きていける。とにかく逃げること」と話した。
高台にある避難所に逃げたが、集落は孤立した。入り組んだ地形の沿岸部にある集落は石巻市中心部から30キロ以上離れ、当初、道路はがれきや土砂で寸断された。4日間は完全に隔絶されたが、全く慌てなかったという。
もともと市内から離れたこの地域は米や缶詰などの保存食を備蓄する習慣があり、水が引いてから被害に遭わなかった家に備蓄されていた食料を全員で分け合った。
さらにガソリンを節約するため、集落中の燃料をまとめて1台の車だけを使用、数日たってから1本だけ通った道を使って買い出しや、親類などへの連絡を効率的におこなった。
今も高台の避難所には約120人が共同生活を送る。まだ電気、水道がなく、電話は通じない。さらにホタテ養殖が県内一盛んだったこの集落の船約50隻も4隻しか残らなかった。しかし伊藤さんは「われわれに悲愴(ひそう)感はない。支え合ったみんなとなら、またやっていける」と話した。
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