2011年9月11日日曜日

東日本大震災6カ月 心の復興 見えぬ明日、迷いの秋

もう半年か、まだ半年か・・・少しでも早く復興できるといいですね。


 コオロギの声が殺風景な部屋へ届く。東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市の半島部、小学校の跡地に建てられた仮設住宅。菅原幸男さん(70)は夕食後のひとときを所在なげに過ごしていた。

「最初は狭いと感じたが、だいぶ慣れた。夏の暑さは蒸し風呂みたいだったけど、エアコンのおかげでしのぐことができた」

半島部の浜で生まれ育ち、マグロ漁船に乗った後、震災前まで水産加工会社で働いた。大津波で自宅を流され、同じ浜で暮らしていた姉とおい、めいを亡くした。遺体が見つからないまま7月30日、3人一緒に寺で葬儀を営んだ。

仮設住宅は4畳半に風呂、トイレの1DK。日本赤十字社から「6点セット」と呼ばれる液晶テレビ、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、炊飯器、電気ポットが支給された。NTTの提供で固定電話もついた。

菅原さんは「やっと落ち着いてきて、このごろしきりに先のことを考える。仮設を出たあと家をどうするか。夜が長いから考えてしまう」。妻の洋子さん(69)は真新しい流し台で洗い物をしながら「おかげさまで何の不自由もない。救援物資もいまだに届く」と話しつつ、こう続けた。

「初めのころは『命が助かった』の一心だったが、最近はあれも持ち出したかった、これも持ち出したかったと考える。孫と撮った写真だの、おじいちゃん、おばあちゃんの位牌(いはい)だの。全て流されたから…」

◆「喜びの季節」

震災から半年がたち、宮城、岩手、福島3県のがれきの撤去は震災3カ月の21%から今月5日には85%まで進んだ。仮設住宅への入居率は78%になった。

ひと月前まで一面の緑だった東北地方の水田では、稲穂が黄金色に色づいてきた。今月下旬から稲刈りが本格化する。だが、福島第1原発事故による放射性物質(放射能)の風評被害への恐れが米どころを覆う。

原発から150キロ離れた宮城県登米(とめ)市の米作専業農家、三浦泰信さん(67)は5ヘクタールの水田で頭(こうべ)を垂れる稲穂を眺め「平年以上に実っているが、一番心配なのは放射能だ。出たら売れない。生活の柱がなくなる。出なくても風評被害で売れないかもしれない」と話し、こうつけ加えた。

「秋は本来、農家にとって喜びの季節だった。収穫を迎え、今年も何とか正月を迎えられると。だが今年は実っただけでは喜べない。『食べ物』として受け入れられるか分からない」

登米市から西へ15キロの栗原市。水田が広がる県道沿いに地元農協の青年部が立てた大きな看板があった。先月下旬に文句を改めたといい、片面には「栗原米 あまりのうまさに ラブ注入」とお笑いのギャグになぞらえたPRが大書され、もう片方にはこうあった。

《きれいな大地と 澄んだ空気 返せ!!》

◆物質面は前進

仙台市泉区の自宅で被災した民俗研究家、結城登美雄さん(65)は過去15年余り、東北の600の農村や浜を訪ね、3千人の声に耳を傾けてきたという。震災は知己たちの命を奪い、暮らしを一変させた。

この半年、浜や避難所を訪ね歩いた結城さんは「これまでは食料の配給やがれきの撤去、仮設住宅の建設と緊急対応を急いできた。確かに物質面は前進した。だが一方で、がれきの中を今も亡き妻や子供の面影を探してさまよう人々がいる。仮設住宅やアパートの中で独り考え込む人々がいる」と話し、こう述べた。

「物質面の対応が進み、復興へのかけ声が高まる中で、心が置き去りにされていはしまいか。割り切れない気持ち、見えない明日への不安を抱えて生きる人々の心へ、もっと目を向けるべきではないか。この秋は人々が悩み、迷い、心が波立つ秋になると思う」

仮設住宅で暮らす菅原さん夫婦は最近、浜の自宅を見に行った。土台と浴槽、トイレの便器だけが残るわが家は夏草が生い茂り、津波が種を運んできたのかヒマワリが大輪を咲かせ、ミニトマトが育っていた。

2人は赤いトマトを摘んで食べ、コンクリートの土台に並んで腰かけて、陽光にきらめく海を眺めた。洋子さんはこうつぶやいた。

「津波さえ来なければ、こんなに穏やかな海なのに」

東日本大震災の発生3カ月から5カ月まで、逆境の中で一歩を踏み出そうとする人々の姿を連載「起動」で伝えてきた。まだ半年なのか。もう半年なのか。暗闇の中を手探りで歩む人々の営みや思いを「模索」と題して報告する。

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