存在意義は?何のためにお金をもらっているのか?早く対応してください・・・
東京電力福島第一原子力発電所の事故をめぐり、原子力安全委員会の小山田修委員(原子炉構造工学)は20日、福島市内で記者会見し、委員として初めて19日に同原発を視察したことを明らかにした。
小山田委員は、事故から1か月以上経過しての視察について「当初は、現場が次から次へと事象が変化するのに対応することで手いっぱいだった」と釈明。「ずっと助言活動に対応していた」などと語った。
小山田委員は19日、約5時間にわたって作業拠点の免震重要棟などを視察。吉田昌郎所長や100ミリ・シーベルトを超える被曝をした作業員と面会し、現場の状況を聴取した。
毎日ニュース速報日記では管理人の気になったニュースをピックアップして独自コメントをつけて掲載していきたいと思います。 毎日とありますが毎日掲載するという訳ではありません。 管理人の都合の良い時に更新を行います。 そんなご気楽管理人ですがどうぞ宜しくお願いします。
2011年4月20日水曜日
クラスター爆弾使用を非難=国連人権弁務官
全然沈静化の兆しがみられませんね。クラスター爆弾は、使っちゃいかんでしょう・・・
ピレイ国連人権高等弁務官は20日の声明で、リビア政府軍が中部の都市ミスラタを攻撃した際、条約で使用が禁止されているクラスター(集束)爆弾を用いたとされることを強く非難した。また、医療施設を意図的に狙った攻撃は戦争犯罪に当たると述べ、戦闘停止を訴えた。
ピレイ国連人権高等弁務官は20日の声明で、リビア政府軍が中部の都市ミスラタを攻撃した際、条約で使用が禁止されているクラスター(集束)爆弾を用いたとされることを強く非難した。また、医療施設を意図的に狙った攻撃は戦争犯罪に当たると述べ、戦闘停止を訴えた。
2011年4月19日火曜日
福島から全国へ避難、生活3万人 避難先での風評被害対策が急務
県内への避難者も含めたら、相当数ですよね。戻れるといいですね・・・
福島県は19日、東日本大震災と東京電力福島第1原発の事故後、県外の避難所や公営住宅などで暮らしている人が2万9833人に達したと発表した。全国の都道府県に問い合わせ、岩手、宮城を除く45都道府県から回答を得た。
震災後、福島県の全域に設けられた避難所は津波などの被災者でほぼ満杯となり、原発周辺の住民で県内に行き先がなくなった人が県外に避難した。
避難者数が最も多かったのは、南相馬市などから集団避難した新潟県で、7651人。続いて多かったのは、双葉町が役場機能を移すなどした埼玉県で、3524人だった。このほか、群馬県(2948人)▽栃木県(1767人)▽山形県(1687人)▽秋田県(1140人)▽東京都(1097人)-が1千人を超えた。
沖縄県(129人)や鹿児島県(54人)など、遠方に避難した人もいた。
全国的に受け入れが進む一方、避難先でいじめや差別を受ける例も少なくない。福島県には、「飲食店に、福島ナンバーの車での入店を拒否された」「首都圏の専門学校では、福島出身者に自宅待機を命じている」といった報告や相談も寄せられている。
このため、佐藤雄平知事が19日の災害対策本部会議で「政府で風評被害防止の対応をしてほしい」と政府関係者に求める場面もあった。
福島県は19日、東日本大震災と東京電力福島第1原発の事故後、県外の避難所や公営住宅などで暮らしている人が2万9833人に達したと発表した。全国の都道府県に問い合わせ、岩手、宮城を除く45都道府県から回答を得た。
震災後、福島県の全域に設けられた避難所は津波などの被災者でほぼ満杯となり、原発周辺の住民で県内に行き先がなくなった人が県外に避難した。
避難者数が最も多かったのは、南相馬市などから集団避難した新潟県で、7651人。続いて多かったのは、双葉町が役場機能を移すなどした埼玉県で、3524人だった。このほか、群馬県(2948人)▽栃木県(1767人)▽山形県(1687人)▽秋田県(1140人)▽東京都(1097人)-が1千人を超えた。
沖縄県(129人)や鹿児島県(54人)など、遠方に避難した人もいた。
全国的に受け入れが進む一方、避難先でいじめや差別を受ける例も少なくない。福島県には、「飲食店に、福島ナンバーの車での入店を拒否された」「首都圏の専門学校では、福島出身者に自宅待機を命じている」といった報告や相談も寄せられている。
このため、佐藤雄平知事が19日の災害対策本部会議で「政府で風評被害防止の対応をしてほしい」と政府関係者に求める場面もあった。
福島原発汚染水処理、来月末めど=毎時50トン除染へ―仏アレバ
期待しましょう。全ての、有効なノウハウを駆使してください!
来日中の仏原子力大手アレバのロベルジョン最高経営責任者(CEO)は19日、都内で記者会見し、福島第1原発内にたまっている放射能汚染水の除染システムを5月末に稼働するよう東京電力から要請されているとした上で、実現に向け全力を尽くすと表明した。
同CEOによると、自社施設で既に導入している「共沈」と呼ばれる除染方法を採用し、汚染水中の複数の放射性物質を一緒に沈殿させる。一時間当たり約50トンずつ除染することが可能になり、「汚染の度合いは1000分の1~1万分の1になる」(同CEO)という。
また、海水脱塩のための「蒸発管」を他社と共同で供給することを明らかにしたほか、使用済み核燃料の処置や、原発周辺地域を含めた土壌除染などでも協力する用意があるとした。
さらに、東電が事故収束への工程表を発表したことについて、「(原発は)非常に大きな損傷を受けており、出たことは前進」と評価した。
来日中の仏原子力大手アレバのロベルジョン最高経営責任者(CEO)は19日、都内で記者会見し、福島第1原発内にたまっている放射能汚染水の除染システムを5月末に稼働するよう東京電力から要請されているとした上で、実現に向け全力を尽くすと表明した。
同CEOによると、自社施設で既に導入している「共沈」と呼ばれる除染方法を採用し、汚染水中の複数の放射性物質を一緒に沈殿させる。一時間当たり約50トンずつ除染することが可能になり、「汚染の度合いは1000分の1~1万分の1になる」(同CEO)という。
また、海水脱塩のための「蒸発管」を他社と共同で供給することを明らかにしたほか、使用済み核燃料の処置や、原発周辺地域を含めた土壌除染などでも協力する用意があるとした。
さらに、東電が事故収束への工程表を発表したことについて、「(原発は)非常に大きな損傷を受けており、出たことは前進」と評価した。
規制値28倍のセシウム検出=福島県いわき市沖コウナゴ―厚労省
セシウム・ヨウ素以外の放射性物質は?ストロンチウムやプルトニウム・・・気になりますよ。
厚生労働省は19日、福島県いわき市沖で採取された小魚のコウナゴから、食品衛生法の暫定規制値の約28倍に当たる1キロ当たり1万4400ベクレルの放射性セシウムが検出されたと発表した。
検出されたのは、18日に採取された2検体のうちの1検体。同2000ベクレルが規制値の放射性ヨウ素131も3900ベクレルが検出された。別の1検体はいずれも規制値を下回っていた。
厚生労働省は19日、福島県いわき市沖で採取された小魚のコウナゴから、食品衛生法の暫定規制値の約28倍に当たる1キロ当たり1万4400ベクレルの放射性セシウムが検出されたと発表した。
検出されたのは、18日に採取された2検体のうちの1検体。同2000ベクレルが規制値の放射性ヨウ素131も3900ベクレルが検出された。別の1検体はいずれも規制値を下回っていた。
2011年4月18日月曜日
東日本大震災 その時なにが…大川小、津波で多くの犠牲者
どう対応するのが、一番よかったのでしょう。こればかりは、分かりませんよね。すぐに避難しても、全員がいるか確認できたか・・・
全校児童108人中死者64人、行方不明10人と、学校では東日本大震災最多の犠牲者が出た宮城県石巻市立大川小学校。追波湾(おっぱわん)から同市長面(ながつら)地区に上陸した津波は、湾奥部の北上川河口から約4キロにある大川小の2階建て校舎、そして校庭から避難し始めた子どもたちと先生の列をのんだ。住民や関係者の証言から、激しい揺れにパニックに陥った学校の惨劇が浮かび上がる。
◇その時
「ありがとうって伝えたくて」。3月11日午後、2階の4年生の教室に、育ててくれた父母への感謝の気持ちを込めた子どもたちの歌声が響いていた。10歳を祝う「2分の1成人式」の記念DVD用に、担任の佐々木芳樹先生(27)が録音していた。武山詩織さん(10)は振り返る。「2番にいかないくらいだったかな」。激しい揺れに歌声が悲鳴に変わった。校内は停電。机の下に入った子どもたちは先生の指示で校庭の真ん中に集まった。
先生たちは児童を座らせ、点呼を取った。近所の人たちも避難してきた。当日、娘の卒業式で市外にいた柏葉照幸校長(57)は「この時、恐怖と混乱から泣き叫んだり、嘔吐(おうと)したりする子どももいた」と後日、報告を受けた。学校は、混乱していた。
自宅から車で詩織さんを迎えに来た母久美さん(38)は学校到着を午後3時25分ごろと記憶する。「名簿を手に、迎えに来た保護者や避難住民に応対する先生たちもいた」。詩織さんを車に乗せ、アクセルを踏んだ。「津波はここまで来ない」と思いつつも、北上川より5メートルほど高い堤防近くの新北上大橋に向かい、さらに標高のある南を目指した。
避難を呼びかけるため広報車で河口に向かった市職員、武山泰徳さん(53)は3時20分ごろ、学校から約1キロ海側の墓地近くにいた。「沿岸の松林の奥に水しぶきが見えた。津波だと思った」。Uターンして拡声機で繰り返した。「津波です。避難して」
◇黒い波
大川小がある釜谷(かまや)地区の東隣、長面地区の農業、三條昭夫さん(75)は、妻喜久子さん(72)と車で釜谷地区に向かった。「80キロほど出ていたと思う。後ろから浮世絵に描かれた波を黒く塗ったような波が、縦にぐるぐる回転しながら迫ってきた。大川小前で校庭にいる子どもたちの姿が横目に見えた」
学校では、体育館や校舎2階に避難できるか校内を見回った先生もいたが、避難住民とともに新北上大橋のたもとにある交差点に向かうことになった。その距離約200メートル。高さは堤防や校舎の屋根とほぼ同じだ。校庭から列になって釜谷交流会館の脇を通り、裏山沿いの裏道を歩いた。
同じ長面地区の永沼輝昭さん(70)と妻睦子さん(66)は6年の孫遼太君(12)、4年の和泉(いずみ)君(10)兄弟を迎えに車2台で学校に着いた。永沼さんは車外に出て兄弟を乗せた睦子さんと避難先を相談していた。校庭から先生と児童の列が出てきた。
永沼さんは「列が裏道に進み出した時『バリバリ』という音とともに黒い水しぶきが来た」。睦子さんと兄弟を見失い、子どもたちに叫んだ。「山さ上がれ」。裏山の斜面に飛びついた。雪で滑り、波にのまれたが、押されるように斜面に上がった。3メートルほど先の水面に女の子がいた。そばの竹を左脇に抱えるようにして腕を伸ばし、手を握った。
遼太君と和泉君は1週間後、遺体で見つかった。永沼さんは「近くにいたら、なんぼでも助けたんだけどな」。睦子さんは、見つかっていない。
◇裏山へ
列の後方に、5年生の男の子がいた。津波の翌日、男の子を保護した顔見知りの男性によると、男の子は震災から1カ月が過ぎたころ、当時の状況をこう明かした。
すごい音がして、津波が前から来た。腰を抜かし、その場に座り込んだ子もいた。自分で判断して、裏山に逃げた。竹林で他の男の子2人と大人十数人と一緒になり、一晩過ごした。大人が持っていたライターで火をおこした。「眠れば死ぬんだからな」と言われ、一睡もしなかった--。
当時大川小にいた先生10人と事務員1人のうち、佐々木先生を含む9人が死亡し、1人は行方不明のままだ。助かったのは裏山を駆け上がった40代の男性教諭1人。この教諭は山を登る際、倒木で負傷しながら近くの男児1人を押し上げるように助けたという。
◇その後
なぜすぐに裏山に避難しなかったのか--。大川小学校の惨劇への疑問は、この一点に集約される。
石巻市は、大川小学校への津波到達を想定していなかった。市の「防災ガイド・ハザードマップ」は、同小を避難所として「利用可」としている。柏葉校長は「堤防を越える津波が来たらもたないので、山に避難場所をつくろうと職員で話はしていた。裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話していたが、そのまま震災になった」と明かす。
校舎に残る三つの時計は、いずれも3時37分を指し止まっている。地震から津波到達まで、恐らく40~50分あった。9日の保護者への説明会では、校庭で点呼を取るなどした対応に「なんですぐに逃げろって言わなかったのか」と非難の声も出た。だが一方「108人誰も欠けないように点呼し、先生はよくやってくれた。誰が悪いと思ったことはない」と話す保護者もいる。
狩野あけみさん(42)は避難所から学校周辺に通い、今も毎日、行方不明の三姉妹の末っ子、6年生の愛さん(12)を捜す。「あの日、自転車で『行ってきます』って出かけたままで。私はずっと待ってる。もう帰ってきてもいいころだよ」
全校児童108人中死者64人、行方不明10人と、学校では東日本大震災最多の犠牲者が出た宮城県石巻市立大川小学校。追波湾(おっぱわん)から同市長面(ながつら)地区に上陸した津波は、湾奥部の北上川河口から約4キロにある大川小の2階建て校舎、そして校庭から避難し始めた子どもたちと先生の列をのんだ。住民や関係者の証言から、激しい揺れにパニックに陥った学校の惨劇が浮かび上がる。
◇その時
「ありがとうって伝えたくて」。3月11日午後、2階の4年生の教室に、育ててくれた父母への感謝の気持ちを込めた子どもたちの歌声が響いていた。10歳を祝う「2分の1成人式」の記念DVD用に、担任の佐々木芳樹先生(27)が録音していた。武山詩織さん(10)は振り返る。「2番にいかないくらいだったかな」。激しい揺れに歌声が悲鳴に変わった。校内は停電。机の下に入った子どもたちは先生の指示で校庭の真ん中に集まった。
先生たちは児童を座らせ、点呼を取った。近所の人たちも避難してきた。当日、娘の卒業式で市外にいた柏葉照幸校長(57)は「この時、恐怖と混乱から泣き叫んだり、嘔吐(おうと)したりする子どももいた」と後日、報告を受けた。学校は、混乱していた。
自宅から車で詩織さんを迎えに来た母久美さん(38)は学校到着を午後3時25分ごろと記憶する。「名簿を手に、迎えに来た保護者や避難住民に応対する先生たちもいた」。詩織さんを車に乗せ、アクセルを踏んだ。「津波はここまで来ない」と思いつつも、北上川より5メートルほど高い堤防近くの新北上大橋に向かい、さらに標高のある南を目指した。
避難を呼びかけるため広報車で河口に向かった市職員、武山泰徳さん(53)は3時20分ごろ、学校から約1キロ海側の墓地近くにいた。「沿岸の松林の奥に水しぶきが見えた。津波だと思った」。Uターンして拡声機で繰り返した。「津波です。避難して」
◇黒い波
大川小がある釜谷(かまや)地区の東隣、長面地区の農業、三條昭夫さん(75)は、妻喜久子さん(72)と車で釜谷地区に向かった。「80キロほど出ていたと思う。後ろから浮世絵に描かれた波を黒く塗ったような波が、縦にぐるぐる回転しながら迫ってきた。大川小前で校庭にいる子どもたちの姿が横目に見えた」
学校では、体育館や校舎2階に避難できるか校内を見回った先生もいたが、避難住民とともに新北上大橋のたもとにある交差点に向かうことになった。その距離約200メートル。高さは堤防や校舎の屋根とほぼ同じだ。校庭から列になって釜谷交流会館の脇を通り、裏山沿いの裏道を歩いた。
同じ長面地区の永沼輝昭さん(70)と妻睦子さん(66)は6年の孫遼太君(12)、4年の和泉(いずみ)君(10)兄弟を迎えに車2台で学校に着いた。永沼さんは車外に出て兄弟を乗せた睦子さんと避難先を相談していた。校庭から先生と児童の列が出てきた。
永沼さんは「列が裏道に進み出した時『バリバリ』という音とともに黒い水しぶきが来た」。睦子さんと兄弟を見失い、子どもたちに叫んだ。「山さ上がれ」。裏山の斜面に飛びついた。雪で滑り、波にのまれたが、押されるように斜面に上がった。3メートルほど先の水面に女の子がいた。そばの竹を左脇に抱えるようにして腕を伸ばし、手を握った。
遼太君と和泉君は1週間後、遺体で見つかった。永沼さんは「近くにいたら、なんぼでも助けたんだけどな」。睦子さんは、見つかっていない。
◇裏山へ
列の後方に、5年生の男の子がいた。津波の翌日、男の子を保護した顔見知りの男性によると、男の子は震災から1カ月が過ぎたころ、当時の状況をこう明かした。
すごい音がして、津波が前から来た。腰を抜かし、その場に座り込んだ子もいた。自分で判断して、裏山に逃げた。竹林で他の男の子2人と大人十数人と一緒になり、一晩過ごした。大人が持っていたライターで火をおこした。「眠れば死ぬんだからな」と言われ、一睡もしなかった--。
当時大川小にいた先生10人と事務員1人のうち、佐々木先生を含む9人が死亡し、1人は行方不明のままだ。助かったのは裏山を駆け上がった40代の男性教諭1人。この教諭は山を登る際、倒木で負傷しながら近くの男児1人を押し上げるように助けたという。
◇その後
なぜすぐに裏山に避難しなかったのか--。大川小学校の惨劇への疑問は、この一点に集約される。
石巻市は、大川小学校への津波到達を想定していなかった。市の「防災ガイド・ハザードマップ」は、同小を避難所として「利用可」としている。柏葉校長は「堤防を越える津波が来たらもたないので、山に避難場所をつくろうと職員で話はしていた。裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話していたが、そのまま震災になった」と明かす。
校舎に残る三つの時計は、いずれも3時37分を指し止まっている。地震から津波到達まで、恐らく40~50分あった。9日の保護者への説明会では、校庭で点呼を取るなどした対応に「なんですぐに逃げろって言わなかったのか」と非難の声も出た。だが一方「108人誰も欠けないように点呼し、先生はよくやってくれた。誰が悪いと思ったことはない」と話す保護者もいる。
狩野あけみさん(42)は避難所から学校周辺に通い、今も毎日、行方不明の三姉妹の末っ子、6年生の愛さん(12)を捜す。「あの日、自転車で『行ってきます』って出かけたままで。私はずっと待ってる。もう帰ってきてもいいころだよ」
「コンビニ店つぶすわけには…」両親不明の長女が営業再開
強く、前を向いてますね。自分が同じ立場になったとき、どういう風になるか・・・
東日本大震災は街の小売店にも甚大な被害を与えた。宮城県気仙沼市でオーナー夫妻が行方不明になったコンビニ店を「このままつぶすわけにはいかない」と、夫妻の長女が、電気もつかない中で営業を再開させた。両親が見つからない悲しみと不安をこらえながら、来店客に元気な笑顔を見せている。
営業を再開したのは、気仙沼市の国道45号沿いにある「ローソン気仙沼東八幡前店」。停電で店内は暗く、精算は電卓。商品も限られているが、「いらっしゃいませ」と元気な声が響く。
店を切り盛りしているのは、熊谷こず恵さん(29)。市内でチェーン2店舗を経営していたオーナーの父、松市さん(54)と母、みどりさん(57)はいまだ行方不明だ。祖父の栄一さん(83)は遺体で見つかった。
津波が襲った3月11日。松市さん夫妻は、自宅近くで経営する別の店舗にいた。こず恵さんは地震発生直後、いったん店に戻り、子供と従業員とともに車で逃げたが、気仙沼湾の方向から波が押し寄せてくるのが見えた。
こず恵さんが店を出るとき、松市さんは店内でラジオの地震情報に耳を傾けていた。津波から逃げる車のバックミラー越しには、店の駐車場を歩いている母の姿を見た。それが最後だった。
こず恵さんが逃げようとした方向からも津波が向かってきた。車を乗り捨て、近くにあった2階建ての病院に駆け込んだが、2階部分まで水が迫ってきたため、院内にいた人たちと屋根の上に避難した。
何度も押し寄せる津波と火の手におびえながら、避難した人たちと肩を寄せ合い、ぬれた服のまま一晩を過ごした。命からがら津波から逃げたこず恵さん。
「母とは子供のことで口げんかしたのが最後の会話。まさか、あんな津波がくるなんて思わなかったから…」
失意の中、こず恵さんは、両親が経営していた店の一つが、市内にあった同系列チェーンで唯一残った店舗だったと知った。両親の捜索や、壊れた自宅の片付けなどやることは山ほどあった。それでも「家も何もなくなってしまい、残ったのはあの店だけ。店が開くのを待っている人がいる」と、従業員と話し合って再開を決意した。
松市さんの夢は、こず恵さんら3姉妹にそれぞれチェーン店を持たせることだったという。「残った店をつぶすことはできない。店を守るのが私の役目です」。こず恵さんは、力強く前を見据えた。
東日本大震災は街の小売店にも甚大な被害を与えた。宮城県気仙沼市でオーナー夫妻が行方不明になったコンビニ店を「このままつぶすわけにはいかない」と、夫妻の長女が、電気もつかない中で営業を再開させた。両親が見つからない悲しみと不安をこらえながら、来店客に元気な笑顔を見せている。
営業を再開したのは、気仙沼市の国道45号沿いにある「ローソン気仙沼東八幡前店」。停電で店内は暗く、精算は電卓。商品も限られているが、「いらっしゃいませ」と元気な声が響く。
店を切り盛りしているのは、熊谷こず恵さん(29)。市内でチェーン2店舗を経営していたオーナーの父、松市さん(54)と母、みどりさん(57)はいまだ行方不明だ。祖父の栄一さん(83)は遺体で見つかった。
津波が襲った3月11日。松市さん夫妻は、自宅近くで経営する別の店舗にいた。こず恵さんは地震発生直後、いったん店に戻り、子供と従業員とともに車で逃げたが、気仙沼湾の方向から波が押し寄せてくるのが見えた。
こず恵さんが店を出るとき、松市さんは店内でラジオの地震情報に耳を傾けていた。津波から逃げる車のバックミラー越しには、店の駐車場を歩いている母の姿を見た。それが最後だった。
こず恵さんが逃げようとした方向からも津波が向かってきた。車を乗り捨て、近くにあった2階建ての病院に駆け込んだが、2階部分まで水が迫ってきたため、院内にいた人たちと屋根の上に避難した。
何度も押し寄せる津波と火の手におびえながら、避難した人たちと肩を寄せ合い、ぬれた服のまま一晩を過ごした。命からがら津波から逃げたこず恵さん。
「母とは子供のことで口げんかしたのが最後の会話。まさか、あんな津波がくるなんて思わなかったから…」
失意の中、こず恵さんは、両親が経営していた店の一つが、市内にあった同系列チェーンで唯一残った店舗だったと知った。両親の捜索や、壊れた自宅の片付けなどやることは山ほどあった。それでも「家も何もなくなってしまい、残ったのはあの店だけ。店が開くのを待っている人がいる」と、従業員と話し合って再開を決意した。
松市さんの夢は、こず恵さんら3姉妹にそれぞれチェーン店を持たせることだったという。「残った店をつぶすことはできない。店を守るのが私の役目です」。こず恵さんは、力強く前を見据えた。
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